ちゃんと文章を書く練習をする

ブログをやってみたいなあとなんとなく思っていた期間が割と長くあり、せっかくならやってみようと思って去年このブログを始めたけれど、性格がずぼらなせいで全然きちんと更新できず、今年ももう折り返しというところまで来てしまった。

 

英語の勉強をしていて、要領は良くないながらもおそらく微々たる進歩を遂げているはずで、でも英語を頑張れば頑張るほど日本語がうまく出てこなくなってきてしまった気がする。2つの言語をぱっぱとうまく切り替えられるほど私の脳はうまくできていないみたいだった。昔よりもうんと日本語を話すのが下手になってきている。パズルのピースがうまくはまらないような感じで、適切な言葉、ピンとくるこれしかない、という言葉が出てこなくていつも数ミリニュアンスのずれた言葉を使っているから自分でも気持ちが悪い。

うまく話せなくなってきた理由は別に英語学習だけではなくて、人と話す機会が昔と比べてめっきり減ったとか昔より本を読まなくなってしまったとか日記を書く頻度が減ったとか、いろいろなんだと思う。数ある理由のすべてをどうにかすることは難しいけれど、せめて文章を書く練習をすれば文脈に合った言葉を素早く探し出す作業ができるようになるかもしれない。そういうわけでブログの更新を続けるとかそういうレベルの高い話ではなく、まずは文章を書く練習をしようと思った。

 

昨日の散歩中にiPhoneとイヤホンをつなぐアダプタが壊れてしまって、好きな歌を聴こうと思っても肝心のメインボーカルがほとんど聞こえなくなってしまった。ギターもベースもドラムも聞こえるけれど歌はだめ。でもハモリの部分とバックコーラスの部分だけは聞こえるので、この部分ではこのメロディでハモっていたんだなというのが分かるようになった。楽器はやっていたけれど、主旋律に対してどのメロディがうまく調和するか、というのは私には分からない。ピアノをやっていた人はこのあたりの感覚がすごく優れていると思う。私はバイオリンを習っていてバイオリンにも和音はあるけれど、あくまでも一度に奏でられるメロディは一つなので、右手と左手とで違うメロディを演奏してハーモニーを作りだすピアノとは少し違うような気がする。

とにかく私にはあるメロディに対してうまくハーモニーを作り出せるメロディを考えることも聞き取ることも基本的にはできないので、イヤホンが壊れてくれたおかげでそれが耳で聞いて分かるのでうれしい。イヤホンが壊れる前もきっとそのハモリが聞こえていたはずだけど、主旋律に集中して聞き取れてはいなかったんだろうな。

新しいアダプタをAmazonで注文するついでにタオルケットを買った。一人暮らしを始めて5年になるけれど、タオルケットを持っていなかったからいつも夏場はマットレスの上に転がるだけの姿勢で寝ていた。でも少し肌寒いときに体にかけられるものがあるといいなとはずっと思っていて、まあまあの出費なのでなかなか購入に至らずにきてしまったけれど、必需品だしできるだけ長く大事に使おうと思い切って買ってしまった。今治タオルのやつ。ベッドフレームも枕カバーも緑系の色なので、タオルケットも色味を揃えた。

こういう、生活に必要なものでも必要でないものでもある程度きちんと買えるようになりたいので、そろそろバイトを探さないといけない気がしている。コロナのせいでバイトのシフトがまったく入らなくなってしまい、3月から完全に無給になってしまった。緊急事態宣言も解除されたしそろそろ連絡が来るんじゃないかと待ってはいるけれど、そろそろ収入がないと不安になってくる。今月中旬くらいまで待ってみて何の連絡もなかったら、近所で働けるところを探したい。

働かなきゃという焦りがある一方で、最近原因不明の体調不良に悩まされているのでなかなかバイト探しに踏み切りにくい。多分心因性だけど、微熱が続いているのでいまいち元気が出ず、学校の勉強もまともに頑張れていなくて本当に焦る。前にもストレスが強い時に微熱が続くということは何度もあって、長いと2ヵ月近く続いたこともあったので、今回も収まるまで待つしかないとは思っている。ストレスやメンタルの不調に起因しているので、風邪薬を飲んだところでどうにもならないというのがつらい。

やらなきゃいけないことはたくさんあるのに、そのどれ一つとしてまともにできていない自分にがっかりしてしまう。いろいろなことを先延ばしにして現実を見ないようにしてしまっている感じ。目の前のことを誠実にひとつひとつこなしていくしかないのに、頭の中がこんがらがっていてどれから、どういうふうに手を着ければいいのか皆目見当がつかなくて途方に暮れている。

 

コロナによる自粛生活で学校に行けないので、なかなか曜日感覚を持って生活するのが難しいけれど、普段通り平日は勉強して土日は休む、というサイクルで日々を送るようにしている。明日、というかもう今日だけど、また月曜日になってしまった。明日からちゃんとやれるかな。ちゃんとやれないことばかりだけどちゃんとやることを諦めてはいないので一応まだましだと思いたい。

 

生きていくしかないということが一番無理

ここ最近なにかが足りていない感じがあって、その欠けているものが何なのかということをずっと考えてる。子供の頃は喜怒哀楽というか感情の境目がはっきりしていたから、うれしいとき、楽しいとき、怒ってるとき、悲しいとき、別になんともなく大丈夫なとき、みたいな感じでその時々の感情を5パターンくらいにちゃんと区別できた。大人になってから、楽しい!とかうれしい!と思うのは本当にただの一瞬になってしまったし、それが長続きしたとしてもその後に深い悲しみだったり怒りだったり疲労だったり、とにかくそういう形の反動がくる。完全にダメという気分ではないけれど、楽しいとかうれしいとか、とにかく満足できる気分とも程遠くて、それを埋めるためにあと一つ必要なピースが足りてない感じ。

 

この感覚は大学に入ってから人生の中で時々訪れるようになって、ある意味それが生活の中で一番と言ってもいいほど大きな悩みになっているのかもしれない。死に至るほどの感情ではないけれど満足でもない。私は多分満ち足りた気持ちでいたいみたいな欲求がすごく強くて、少しでも「なにか欠けてる感」があるとその欠けているという感覚の方に引っ張られていってしまうんだと思う。私が一番尊敬している人が、悲しくなったり不安になったりするのは当たり前、自分たちみんな人間だから、と言ったことがあって、それはそれで腑に落ちたけど、かといってそういう感情とどうやって向き合えばいいのか、どうやってそれをうまくごまかして生きていけばいいのかということは分からなくて戸惑ってしまう。彼がそう言ったときに質問しておけばよかったけれど、その時は人の言葉を聞いて理解して頭の中に収めるので精一杯なくらい精神的に落ち込んでいたので質問するエネルギーがなかったんだよな。今だって質問できないわけじゃないけれど、お互い母国語が違って違う国に住んでる中でLINEとかメッセンジャーとかでそんな話をしたくない。目の前にいて話ができたらそれが一番いいけどそれもできないから仕方なくて自分で答えを探すしかない。

 

好きなはずのことをやっても楽しめなかったり、生活の些細なことが負担になったりすると、本当にどうやって生きていけば...?という気分になってしまうよ。眠れば考えるのをやめることはできるけれど、眠って過ごした時間のことを非生産的だと思ってしまって結局落ち込むことになる。それでも生きていくしかないというか、そういう気分をなんとかうやむやにごまかして大丈夫な気持ちになれるまで時間を潰すしかないということが分かってはいるけどそれが一番大変。生きるのが一番難しい。ただこの場に生きて存在しているということが一番難しい。

 

10年来の友達と距離を置く

10年来の友達と距離を置くことに決めた。彼とは中学生の頃に知り合って、同じ高校に進学して時々同じクラスになったりして、大学は別々のところに進んだけれど毎月会ったり電話で話したりする、そういう関係だった。

 

「この子と一緒にいるときって実は楽しくないんじゃないか」という疑問は一年以上前に芽を出していて、けれど長年の友人は大事にすべきという根拠のない信条が彼と距離を置く決断をすることを妨げていた。友達を作るのが苦手なタイプであることもあり、友達を失うことに対する恐怖も大きかったのかもしれない。それでも一度生まれた違和感は徐々に無視できないものに育っていった。決定的だったのは、年上のお姉さんに「本当に縁のある人とは一度離れたあとでもまたつながるよ」と言われたことと、同い年の外国人の友達に「toxic friendsと一緒にいる必要はない」と断言されたことだった(toxic friendsって日本語にどう訳したらいいんだろ)。

 

人間関係の整理、みたいなものはほとんどしたことがなくて、これが初めての経験だった。幼稚園から中学校まで一貫の学校に通って、昔からみんな友達でずっと一緒にいるのが当たり前という環境にいたのがその理由なのかもしれない。距離を置くと決めたときは緊張したし不安でもあったけれど、一緒にいて惨めな気持ちになる友達と一緒にいる必要はないということがやっとちゃんと身をもって理解できた、と思う。

 

今思えば私と彼の関係は全然フェアじゃなかった。おそらく彼は私のことを自分のケアテイカーにしたかったのだと思う。待ち合わせの時間に毎回遅れても決して怒らず、一緒にご飯を食べるときはお店と注文するメニューを決めてくれて店員さんに注文してくれて、遊びに行くときは行き先を決め交通手段を調べてくれて、真夜中に電話しても応答してくれる、そういう人間を求めていたんだろう。私が私だから友達でいたのではなくて、都合のいいケアテイカーになってくれる手近な人間が私だったから人付き合いを続けていただけだ。

 

なぜ彼のケアテイカーであり続けてしまったのか本当に自分でも分からないし心底自分のことが情けなくなるけれど、大学に入ってからの私はずっとメンタルの調子がガタガタで、だから自分が他人の面倒を見て「この人には私が必要だ」と思うことで自分の存在価値を保証したかったのかもしれない。おまけに自分に自信がなかったから、彼の行動に疑問や反感を抱くことがあってもそのたびに「私の心が狭いせいでこんなことを考えるんだ、もっと大人になって他人を気遣えるようにならなきゃダメだ」とか思って、彼に意見することすらしなかった。人と喧嘩するのはエネルギーがいるし疲れるから、それだったら自分が我慢しようという考えもあった。

 

でも本当はずっと嫌だった。待ち合わせするたびに待たされるのも、食事する場所や遊びに行く場所を決めるのを全部丸投げされて全く手伝ってくれないことも、電話で長々愚痴を聞くのも、楽しくなかったし人間として尊重されてない感じがずっとあった。おまけに一緒に出掛けるときはいつも私が彼の機嫌を取らなければいけないような気がして疲れたし、私は話すとき絶対に相手の気持ちを傷つけないように気をつけるのに彼はそういうことを一度もしなくて何度も傷つくことを言われたのも嫌だった。友達と会うためにわざわざ出かけていって、疲れ切って家に帰ってくるのも嫌だった。

 

彼の行動が嫌だったのと同じくらい、自分のことも嫌だった。私は彼とただ対等な、お互いに助け合える成熟した健全な友達になりたかっただけだった。それなのに意見することもせず、自分がしなくてよかったはずのことを何年もやり続けた。自分の信条や感情に反することにあまりにも長い時間を浪費してしまった。彼が時々放つ「ごめんね」と「大好き」という言葉に何年も騙されて、「この人は私のことを好きでいてくれるし感謝もしてくれる!」みたいな本当にバカげた思い違いに動かされていた(実際彼はごめんねといっただけでありがとうと言ったわけではないのに私の脳みそは都合よく誤解した)。大好きって言葉にほだされてたなんて本当に死にたくなるレベルで自分が恥ずかしいし、過去に戻れるなら今すぐ過去の自分をひっぱたいて目を覚ませ!って言いに行きたい。

 

散々なことを書いてきたけれど、彼も昔はすごくいい子だった。いつもニコニコしていてみんなに好かれていた。けれど大学に入ってから何に対してかは分からないけれど不足感を持つようになって、性格が暗くなったし生活リズムも昼夜逆転して、他者に救いを求めるようになっていったんだと思う。同じように私は大学入学以降メンタルに不調をきたし、自分を頼ってくる人の面倒をみることで私は人の役に立ってるし生きてていいんだ!みたいな気持ちを抱いてしまっていた。

 

メンタルの不調とtoxic friendsとの相性は悲しいくらいばっちりだ。自信とか、自分の存在意義とかそういうものがぐらぐらに揺らいでいるときにtoxic friendsとのズブズブ不健全生活という底なしの沼に落ちる羽目になるリスクは大きい。

 

楽しい経験ではなかったけれど、これからはちゃんと自分の望まないことを求められたときは私はこれはやりたくない、って言ったりなんでこれをしてほしいの?って聞いてみたりしようと思うし、一緒にいて惨めな気分になったり自分の人生がその人によって悪い方向に引っ張られると分かったりしたらなるべく早く離れるようにしたい。自尊心を守ることの方がtoxic friendsと一緒に居続けることより何百倍も大事だ。

 

 

 

 

ブログを始める

ブログを始めようと思ったのはもう何年も前のことで、いつだったのかさえ思い出せないけれど、ようやくブログを始める。ひとつのことを始めたらそれを継続すべきという思い込みが割と強くあって、ブログを書き続けられるか確証がなかったからなかなか始められなかったけれど、今年は新しいことを試してみる年にすると決めているのでようやく思い切りがついた。思い切りと言うほどたいそうなものでもないけど。

 

新しいものをたくさん試してみる年にすると決めた割に、あまり多くのことはできていないような気がする。大学を休学したことや友達をUSJに誘うことは「新しいこと」のうちの一部としてカウントできはするけど、休学はしなくて済むんだったらしなかった方がよかったんだろうし、友達とUSJに行くなんてことはみんな何の問題もなくやっている。私に誘われたらいやな気持になるだろうかとかうまく計画を立てられるだろうかとかぐるぐる考える人はそんなにいない。

 

それでも、これまでやったことのないことをやってみる、という方針は案外気に入っている。このモードがなぜ自分の中に生まれたのかは分からないけれど、去年あたりからそういう気分になっていて、シルクドソレイユを観に行ったり海外のコスメを買ってみたり、ちょっとしたことをちょっとずつ試してみている。今のところやらなきゃよかったと思うことはほとんどなくて、どれもまあまあ楽しいしやってみてよかったなと思う。

 

9月のおわりまでにやってみたいことはずっとロングにしていた髪形をショートにしてみることと、言語交換のアプリを使ってみること。