家族は難しい

法事があるので、母方の祖父宅に来ている。祖父との折り合いが悪いので、肝心の母はおらず、父と二人。祖父は自覚すらしていないだろうけど、典型的な昭和の九州男児なので、基本的に女性が家事とか男性の世話をするのは当たり前だと思っているようなところがある。だから私や母があれこれ世話をしてももちろん「ありがとう」なんて言わないし、むしろいろいろと文句をつけてくるけれど、父には頭を下げるので、ばかばかしくなってくる。

 

祖父宅に泊まるときにいつも使う部屋に布団を二組並べて敷いて横になり、電気を消してから少し父と話をした。うちの家族には大変難しい病気をもつ人間がいて、話は主にその家族についてだった。父にとっては子どもにあたる。自分の子どもがどんな病気になる可能性があるか、その病気をもって過ごすとか、その人の世話をするのがどんな感じかとか、すべてを完全なリアリティをもって理解できている今若いころに戻るとしたら、それでも子どもを持ちたいを思うか、と聞いたら、持たないかもしれないという答えだった。これがとてもありがたかった。

 

もう一人の子どもである私からそういう風に質問されたとき、人によっては私に忖度して、それでも子どもを持っただろうと答えるかもしれないと思ったけど、忖度されなくてよかった。そういう気遣いは必要としていなくて、ただ率直な気持ちを知りたかったので、その目的が達成されて満足している。私も自分の育った経験からは、とてもじゃないけど子どもを持つなんて大変なリスクは負えないと思っているから、父が同じように感じていると知れて、自分の気持ちは間違いではないのかもしれないと思えた。

 

比較的高齢で結婚して、比較的高齢で子どもを持ち、笑顔とやさしさにあふれた家庭を築きたいと思っていた父が、その願いを叶えられなくて本当にかわいそうだと思う。かわいそうと言うとなんだか他人事みたいというか、表現としてしっくりこない部分も少しあるけど、父の願いが叶えばどれだけよかっただろうと思う。私にとってよかった、よくなかった、ということでは全然なくて、本人にとって。

 

せめてもうひとりの子どもたる私がもっと優しくしてあげられたらいいのだと分かっているのに、私が未熟なせいで基本的に毎日それに失敗していて、申し訳なく思う。一緒に過ごせる時間が限られていることを感じることが多くなって、それが少し怖い。せめて、毎日少しでも優しくできるように努力していくことしかないのだと思う。後悔なく誰かを見送ることなんてできるんだろうか。これまで一緒に過ごしてきたペットたちだって、毎回この子には与えられる限り最高の人生を与えようと思っているのに、見送るときには必ずもっとしてあげられたことがあったはずだと思って悲しくなる。

 

まあそれでも後悔のない見送りは無理だとしても、できる限りのことを毎日やり続けて諦めない、投げ出さない、というのが、結局はできる最善なのかもしれない。もっといい人間になれるようにがんばろう。